口伝證人の背景

執筆背景


2001年頃辺りから、書家の野尻泰煌先生(以後、泰煌さん)から度々「あんたは強力な消化酵素を持っているね!!」と言われることが多くあった。ここで言う消化酵素とは「言語」に対するもので胃腸は寧ろ弱い。氏の仰るに「私が言わんとすることを相手が理解りやすいように整理整頓し、その上で平易な言葉で変換する能力」らしい。現在で言うところのリテラシーがコレに近いが、後年「そんな生易しいものじゃない。消化酵素だ!!」と仰っていた。

動機

暫くすると「マッちゃんは証人=證人(あかしびと)だね。しかも間違いないよ!」と知らず太鼓判を押されるようになる。曰く「口伝といったら尾ヒレがついて本来の意味と変わってしまうものだけど、あんたの言う言葉は本人が言う言葉より理解りやすい!!」とのこと。煽りを受け、名言製造機とも言える氏を前に、言葉を忘れないようにと、当時WordPress本家でサイト「口伝證人」を立ち上げたのだが、別件で諌められた際に「弁が立つ者は弁を控えよ!」と言われ、意向を汲み取り早々に更新を停止することになる。

野尻泰煌という人

偉人と書きたいが、氏は嫌がるので人とした。泰煌さんは私に人はどう生きればいいか、藝術はどう見るものかを教えて下さった方である。他にも、それまで長く理解しかねた疑問の全てに明瞭なスポットライトを当て「そうだったのか!!」と空晴れ渡る思いを与えてくれた唯一の人物である。
それまでも疑問が浮かんでは親や友人や映画や本や記事、論文に救いを求めたが、近からず遠からずで「これだ!!」という結果には導かれず常にモヤモヤした心境のまま大きくなる。インターネットが登場した際も世界の叡智に触れれば答えが出ると喜んだものだが結果は変わらなかった。この光を皆にも届けたいという思いが長くあった。
しかし氏の言葉は正反合を基調にしている。氏も度々「僕の言葉は劇薬だから」と言っていた。つまり解釈しようによっては意図と真反対に加速させることも可能だ。合に至る為に正反を通るのだが、多くの人は自らの理論に寄せて考える為に合に至らず偏る。正では不十分、反だけでは誤り、正と反をもって合に至る。それが大多数は出来ないことを承知し泰煌さんは常に表向きは光の部分「正」だけを言うように気遣っていた。特に後年(ここ7~10年)の氏はそうだった。
その為、氏の言葉はしばしば表面上では矛盾する。私も当初は酷く混乱した。実は全く彼の中では矛盾していない。氏は一旦結論づけるとそれが変わることは無く、99%は下らないことと位置づけられていた。幸か不幸か私はそれが出来ていると判定されたようだ。鵜呑みにしない。必ず自分の中に落とし込む無意識の作業を子供の頃からしていたようだ。簡単に言えば単に頭が悪いことを自覚していたに過ぎない。
だから彼の言葉をそのまま書くのではなく、私の中で落とし込んだ言葉で書き直すことにする。この行為は十五年前よりお墨付きをいただいている。氏の書道会である泰永会で長く刊行されていた書藝要説等は後年90%以上私が執筆したのだが、先生の言葉も私がライティングしている。先生の原案そのものはパズルのように難解で常に消化、整理する必要があった。仕舞いには「僕が言いたいことは君から言った方が通りがいいし確実だから」と、授賞式の替え玉として壇上に上がらせようとされたこともある。
これらを踏まえ読んでいただけると幸いです。

野尻泰煌と自伝

「口伝證人」について書いたが、ついでに野尻泰煌とその自伝についても書き留めておきたい。なぜなら口伝の多くは氏による発言だからである。
私には死ぬまでに何しかしらの小説を書いて本にしたいという細やかな夢が小学六年生の頃に芽生えた。授業で小説を書いた時に感動したからである。もっとも自らが作家の才能があるとは当初より思わなかった。あるならとっくに書いているからだ。それを裏打ちするかのように完成させた小説は1本も無くアイデアレベルで書き散らしては次という状況が長く続き社会人になる。
ある日、とても軽い気持ちで「先生の自伝を何れ書きたいですねぇ~」と言ったところ、そうした軽い話題の全てを聞き流す先生が「マッチャンなら間違いない!!」といたく感激され、任されることになる。
私としては先生は何れ一角の人物になるから、その際は著名な作家から引く手数多だろうと、あくまでも自分の鍛錬として安易に考えていた。だが氏はそれを完全否定する。仮にそうなったとしても、どんな著名な作家が来ようが断るといい。「例えマッチャンが死んでも僕の本は書いてもらうからな!! 僕のことは誰にも書かせない!! 書くとしたら君だけだ!! だから書き上げるんだ!!」と不動明王のごとく紅潮し勇ましい顔と声で後に言われることになる。

母の思い

驚いたことに、氏の母が晩年やりたかった仕事がそれであった。息子である 野尻泰煌 の自伝を書くこと。その夢は叶わず若くして他界することになったことを知る。「不思議な因果だね。君はきっと母親に呼ばれて僕の小説を書く為に来たに違いない。勿論、書もやってもらうけど(蛇足的発言w)」と言う。氏はとても丁寧な方なので、こういう時も察して「なんか蛇足っぽくなっちゃけど違うからね。亀井さん(私の最初の師)に預けられた以上、書は当然やってもらう前提だから」と付け加えた。

野尻泰煌の自伝

氏は「美談」にされることを嫌った。かといって「破談」にされることも嫌った。作家に「遊ばれる」ことも嫌った。私は「それじゃ作家は何も出来ないのでは?」と言い、「それならいっそ歴史年表みたいに書くか、単なる昔話にようになってしまい誰も読みませんよ?」と言うと、「そこを読ませるように書くのが作家の力量じゃないのかね?」と、歌舞伎の見栄のようにキリリと一睨み、書き上げたことすら無いド素人の私に迫った。
序盤でその話が持ち上がり「それでは私には無理です」と言っても後の祭り。「言い出した以上は責任があると」と引かない。(笑)実は私はこういう先生が好きだった。潔いのだ。妙に格好いい。一方では「そんな無茶苦茶だよ」とは思っている。
氏は小説家や歴史家を殊の外に嫌ったが、その理由が「それらの理由だった」。「彼らはイメージで勝手に作り上げるのが仕事だから」と嫌う理由を語った。

自伝頓挫

二人三脚による自伝の取り組みは1年半に及んだが、運びによる脈絡の変化と埋まらない溝により執筆は頓挫することになった。七年ほど前のことである。以後、氏は恐らく私が諦めた、音を上げた、と思ったようだ。私としてはあくまで溝を埋める為の方法論をその間で模索していたに過ぎない。(この時点でも乖離がある)因果なものでそうした方法論そのものを示してくれたのが泰煌さんだった。解決出来ない課題は横へ置いてき、いずれ解決の糸口を探す。

書く側と書かれる側の乖離

私としては書く以上は被写体が「書くな!」という本は書きたくない。しかし「言われたことを書け!」と、書きたくないものを書きたくもない。書くという行為は命を削る。土台それでは仕上がらない。氏はあくまでノンフィクションを主張した。私は当初と変わらず小説としての上校で対立する。そもそもそういう約束だった。概ね仕上がった段階から名前を差し替える計画であり、その登場自分物全員の名前も氏がつけると言っていた。
話が逸れるが、ビジネスでもこういう取引はある。途中で変えるつもりで始まるのだ。コッチをいずれ説得できると、まず相手の土俵で始まる。そうは問屋が卸さない。だから私は当初より何度も小説であることを念押しした。氏は途中で説得出来ると踏んだようだが如何せんそこは譲れない。というのも本は途中でバックボーンを変えると崩壊してしまう。先生のように器用ならともかく私は相当な不器用である。

崩壊

決定的な崩壊の時、草稿そのものはA4で四百頁は既に書いてあった。しかもその頁数で全体の1/3にすらならない。当初の予定ではスター・ウォーズではないが3部作。幼少編・青年編・晩年編を想定。書いていたのは最も劇的な青年編からだった。その青年編の1/3である。「このままでは徳川家康の歴史小説に匹敵する長さになりますよ」と言うと「いいじゃないか! それを越えよう!」と快活な笑み。
長くなったのは理由がある。エピソードを割愛したくとも氏がそれを許さなかったからである。「絶対にこのエピソードは外せない!!」と譲らない。カットしようものなら「なんでアレが入ってないんだ!! 事実と違う!!」と激昂する。途中から止む終えず全て書くことにした結果である。
ある日、なかなか仕上がらない執筆活動に煮え湯を飲まされた氏は突然怒鳴りだし「全部印刷して一度読ませろ!!」と激昂。「どうせつまらんもんが出来てるんだろう!!」と普段一切マイナスな言葉を吐かない氏が啖呵を切った。私は全ページ印刷し、まな板の鯉だったが「くだらんものに突き合せやがって!!」と怒鳴られれば、執筆は終焉するだろうとは心持ちは平和だった。

流れの変化

数日もすると「読み終わった。感想は会って話す」と静かに言われる。こっちからしたら死刑宣告。とは言え特に焦りも緊張もなかった。何せ捨て鉢である。そして氏を前にすると、滅多に興奮しない泰煌さんが「面白すぎて自分のこととは思えないよ!! でも本当にこの通りなんだ!! 嘘偽りない事実。本人が言うんだから間違いない!! 本嫌いの僕でも読みやすくて、最初はどうせツマラナイだろうと読みだしたら止まらないんだ!! もう三回以上読んだけど最初なんか朝までかかって読んだ!!」といたく感動される。心底意外だった。勿論、作家というのは面白いから書いているし、書けるのだが、読者がどう思うかはわからないのだ。
そこで再びこれまで通りの執筆の為の対話が始まるのだが潮目は既に変わっていた。ノンフィクションの件は一旦棚上げになり、取り敢えず書き上げる方向性で始まる。そのタイミングで来られたのが同門の天外黙彊さん、彼を交え2、3回はこれまで通りやり取りをするが頓挫しだす。

藝文對談ともえ

私はあるルールに照らしわせ行動していた。でないと徒労に終わるからだ。それがある日を境に途絶える要因となる。氏は全く素直な人なので、欲するとどんなに時がたとうが要求する。逆に興味が失せたり、潮目が変わると自然と要求しなくなる。その時がきた。先生は一旦棚上げしたがノンフィクションで書くか小説で書くかは決定的なことであり、それを棚上げして進めていい問題ではなかった。私の手も止まりがちになったが執筆は続けていた。
その直後に始まったのが「藝文對談ともえ」というインターネットラジオの取り組みである。私が天外黙彊さんを交えた雑談の中で「先生の話は面白いからラジオでまた聞きたい」と言ったことに対して、先生は門弟がインターネットラジオを始めたことに触れ「マッチャンも出来る?」と問われ「出来ますよ」と答えたことから端を発する。

天外黙彊さん

その時、先生は自分の小説より眼の前の青年(天外黙彊さん)をどうにか大きくプラスの方向へ導きたいという強い欲求に変化していた。それもあって人前で喋ることを恥とした氏が音声放送を自ら買って出たのである。泰煌さんは元々何もやりたくない人だったのでおかしいなと思っていた。するとやはり自分は当初より出るつもりが無かったようで、収録当日「二人でまずはやりなよ」と言い、対談がスタートする。(他の人には私が目的を変えたからと言っていたようだが、目的は変えていなかった)

藝文對談ともえ は私の言葉を発端に天外黙彊さんを大きく成長させたいという師としての思いから始まったと言っていい。天外黙彊さんとしても突然「ラジオをやろう」と言われ青天の霹靂だったことだろう。私も目が点だった。こうして全員が全く異なる思惑で始まる。一方でこうなる可能性は考えていたので、(まさか第一話からとは夢にも思わなかったが)後に引き込むことに成立する。(これはお互いにとって幸いしたと思っている)

乖離を埋める思索

先生の自伝をどう書くか長く検討したが、唯一その可能性を感じたのが対話形式である。事実を元にしながらもノンフィクションのような客観性を必ずしも必要としない。インタビュー形式ではなく、物語ることが出来るだろうと3年ほど前に思いついた。発想の大元は自らが執筆した書藝要説の原稿である。確信がもてないまま「これなら先生の意思も汲み取り被害者も出ない。それでいて自分でも書けそうだ」と考えていた矢先、エッカーマン著「ゲーテとの対話」に出会う。「とっくの二百年前からあるじゃん!!」(笑)そう、既にそうした本があったのだ。私は画期的とすら思ったが単なる無知だった。
これで躊躇う理由が無くなった。前例が無い場合、余程の才能が無い場合は書き上げられない。同時に読者も新しすぎて受け入れられない。既にあるなら何の問題もない。実はこの話は先生に告げないまま終わってしまった。ある程度書き出して、自ら手応えを感じてから読んでもらい告げるつもりだった。2020年、先生から依頼された「泰煌作品集」を作り上げ(結局、打ち合わせすら出来ずだった)、その後の2021年から書き出すつもりだった。

急逝

2019年12月15日の早朝、野尻泰煌先生が急逝。私は書き上げた時、氏が心の底から喜んでくれることを夢見ていた。形式は違えども実際その手応は草稿の反応からも十分あった。例えその本を読んだ誰しもが「こんなことはありえない」「嘘だ」「作っている」「これは野尻泰煌じゃない」「私の知っている野尻さんと違う」と糾弾されても平気なつもりだった。二人でニンマリ笑って「先生やっぱり誰も信じないですよ」「だろうね!! 無理もないよ!! でもコレこそが僕そのものだよマッチャン!!」と笑いあえれば良かった。心から理解し満足してくれる読者がたった一人いれば十分だった。それで人生を終えても良かった。それは作家として最高に思えたからだ。ところがその読者が突然居なくなった。
でも氏は嘗て言った「ここまで喋らしたんだ!! 死んでも書いてもらうからな!!」と。(自分で進んで喋ったのに)「死んだら書けないですよ」と無言で返す私に「そんなことアンタに言われなくたってわかってるわ!! それぐらいのつもりだと言ってるんだ!!」と血管を浮かび上がらせて言った。彼は我儘だから言い出したら聞かない。譲らない。君江さんから今際の際に「これからはマッチャンの言うことを私の言葉と思って聞くのよ」と言われ「わかったよ」と言ったそうだのに、一度も聞くことは無かった。書き上げるまで楽にさせてくれそうにないかもしれない。逆に諦めたら諦めたで「マッちゃんももう疲れたろうからこっち来なよ。あの世はいいよ~天国だよ~」と冗談を言いながら呼ばれるのだろうか。

彼は常々「僕は何時死んでも満足なんだ」と言っていた。
「好き勝手にやらしてもらっているから」と。
人と会う時は「これが最後」と思って会っていた。

だから私が病から来る倦怠感に負けてなんとなく対応すると「これが最後だったらアンタどうするんだ!? 後悔しないのか!?」と声を荒げた。常に全力だった。常に我儘だった。常に優しかった。常に冷たかった。常に真剣だった。常に今接する相手に出来る最上のことを考えていた。常に最短を考えていた。我儘が許される相手には常に自分を最優先にさせるのに、それ以外では常に譲っていた。何時も子供みたいだった。何時も学者みたいだった。仙人や仏様みたいだった時も。

昔、「先生は仏様みたいですね。 まさか生まれ変わりですか?」と本気で言ったら、顔を真っ赤にしテーブルを一叩き。「人を無責任に持ち上げるな!! 上げられる身にもなってみろ!!」と激昂。「僕は僕だ!! 勝手に作るな!! それは僕じゃない!!」と言われ、考えさせられた。

小説の執筆中にノイローゼになりそうなぐらい「で、野尻泰煌という人はどういう人?」と決まって最後に尋ねられた。毎日にように。答えが変わらないと怒鳴りだし「考えてない証拠だ!!」と言った。それで終わらないのが彼だ。「それでどうなの。野尻泰煌という人はどういう人?」答えが変化するまで食い下がる。

その氏に2019年11月「野尻泰煌に関するピースは埋まったかい?」と問われる。これは自伝を書く前に私が言った言葉だった。野尻泰煌は人間が大きすぎて全然見えてこないと言った。大人物でも1万ピース、でも先生は3万ピースぐらいあるんじゃないかと言った。正確に憶えていることにかなり驚いた。何せ氏はほとんど忘れてしまう。言った本人も忘れていた。「埋まりました。・・・98%がたですが。ピースそのものは埋まりました。2%ほど薄いピースがあります。でも検討はついてます」すると数年ぶりに問われた。「そのマッチャンに問いたいんだけど野尻泰煌とはどういう人?」私は最も重要な部分に限定して答えると、「本当にその通りの人だと思うよ!! マッチャンにはいずれでいいから野尻泰煌論を書いてもらいなぁ」と控えめに言われる。その話を持ち出すのは久しぶりだった。「書きますよ」と答えた。その前までは答えてなかった。「それは楽しみだ」と言われる。

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