野尻泰煌:合わせずに合っていく

口伝


合わせずに合っていくようじゃない限りいい関係たえりない。
合わないとうまくは回らないよ。
でもそれは結果的に合うのであって、
意識して合わせちゃ駄目なんだ。
だから相手を自分に合わさせようと強要しても駄目。
自発的行動でもって接し、
相手の行動を受け入れいつつ、
結果的に合うようじゃないと。
作品もそう。

野尻泰煌



言葉の背景


夫婦や組織内での人間関係のあり方を話している最中でのこと。
夫婦でも組織でも自らの発露でもって行動する。
”相手に合わせる”行為は自分がない。
一時はいいが自ら本来の思いではないため時間と共に疲弊が生じいずれ不満となる。
”相手を自分に合わさせようとする”行為は例え良いことであっても相手を疲弊させる。
やはり一時はいいが自発的働きでないため不満が生じる。
いずれの場合も一時的には良いが、
最終的には致命的な衝突を生み関係や組織は崩壊する。

視点


ここで最も難しいのは
”相手が自分の意にそぐわない行動をする”場合だろうと思う。
ほとんどの場合そうだろう。
ある意味では当然なのだが、これが自発的に行動をしていると忘れてしまう。
野尻はこうした場合、反論せず相手の意見を聞き入れ、自分の思いと真摯に向き合うという。
”そうじゃない”と思ったら合わせないで自分の意思を貫く。
それを責められたら”そうだったね”とか”すまないね”と素直に受け入れ反論はしない。
その上で自らの行動は結果継続している。

晩年


泰煌さんは自分の考えを捨てると言った。
これからは全て「君江さんが導いてくれた相手だと」と。
流石の先生でもはかなり無理をしていると感じた。
それでも、
全てを受容することそのものが大きく人生を展開する為に必要だと繰り返し言った。
私は当時(40代)の考えの方が今でもしっくりいく。
ただ彼の行為そのものはとても人間が大きいと感じていた。
並の宗教家よりストイックで真摯で大きい。
ある意味では即身成仏したのかもしれないとさえ思える。

松里鳳煌の私見


氏は度々、自身に起きる出来ことは全て乗り越えられるから起きると言った。
私は逆の意見だ。
自身に起こる出来事は時として自身を殺すほどに越えてくると今も感じている。
これ以上いったら死ぬという出来事も時として起きる。
その時、出来るのは自身の無意識と対話しチキンレースを開催することだ。
一線を超えれば普通に死ぬ。
でも、どこまで粘るかで自身を拡張する機会となる。
死なないように、後遺症が残らない程度にギリギリまで粘る。
裏を返せばチキンレースにならないほど極端なことは起きない。
起きる時は解せないが寿命なのだろう。
それ故に、自分の身体の声が大切になる。
どれだけ自身に寄り添うか。

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